落ちこぼれだった僕を、両親は常に受け入れてくれた

落ちこぼれだった僕を、両親は常に受け入れてくれた

2019/07/31

ファクトリエ(下) 店の手伝いではクリエイティブな仕事を積極的に任せられ、中1で短期留学へ。両親が与えてくれた数々の経験で視野が拡大

「メイド・イン・ジャパン」に徹底的にこだわった服飾・雑貨ブランド「ファクトリエ」を展開し、「アパレル業界の革命児」として注目を集めている山田敏夫さんは、熊本市内の老舗洋品店の次男坊。夫婦で店を切り盛りし、忙しく働く共働きの両親から、多大な影響を受けてきたと言います。平日の家族そろっての夕食が毎日夜10時、家族旅行もしたことがないほど多忙を極めていた共働き家庭で育った山田さんが両親からどのような価値観を受け継ぎ、どんな家庭教育を受けてきたのか。先の見えないこれからの時代をたくましく生き抜く子どもを育てるためのヒント満載のインタビューを上編・下編の2回に分けてお届けします。

<ファクトリエ 山田敏夫さんインタビュー>
【上編】 山田敏夫 街全体に見守られて、僕は育った
【下編】 落ちこぼれだった僕を、両親は常に受け入れてくれた ←今回はココ

勉強や習い事、何一つ強制されず

日経DUAL(以下、――) 山田さんは「子どもの頃から落ちこぼれだった」とよく言っていますが、本当に勉強もスポーツも、できなかったのですか?

山田敏夫さん(以下、敬称略) 本当です。小学校で塾に行きたいと思って入塾テストを受けたら、出来が悪過ぎて断られたくらいです。家に帰って落ち込む僕に、おやじは「まぁ、お前は急いで走って行ったから、テストの時に気が動転していたんだろう」と精いっぱいのフォローをしてくれましたが(笑)。

 スポーツはサッカーをはじめ6つくらいの競技をやりましたが、1つもレギュラーになれず、長続きもしませんでした。唯一、救いになったのは、高校に入って始めた陸上の長距離走で、「自分のペースを守って走り続けたら、必ずゴールテープは切れるんだ」と勇気を持つことができました。

―― ご両親からは何も言われなかったのですか?

山田 できないなりにいつも必死な僕でしたが、両親から「もっといい点取れ」とか「勉強しなさい」と言われた記憶はなく、習い事も僕が言い出したもの以外は強制されませんでした。ありのままの僕を見守ってくれていたのはありがたかったですね。

兄と自宅にて。向かって右側が本人(山田さん提供写真)

 一方で、自立した社会人としてやっていくための最低限の教えは、繰り返し言われた記憶があります。例えば、「嘘をつくな」、「借金の保証人にはなるな」、「未熟なうちに子どもを作るな」といったことです。確か中学生になるくらいの時期に、性教育の本も渡されました。実社会でもまれている両親なだけに、生きる上で大切だと思うことは、積極的に教えてくれていたんですね。

―― 仕事で忙しいからといって、ご両親は決して子どもを放任していたわけではないのですね。

山田 はい。むしろ、随分いろいろなことにチャレンジさせてもらってきたと思います。

ディスプレイやホームページも子に一任

 例えば、店の手伝いにおいても、マネキンのディスプレイや、季節ごとの壁面の装飾など、クリエイティブな仕事を積極的に任せてくれていましたね。「正月っぽく羽子板を飾ってみようかな」と自分なりに工夫するのが楽しかったです。店のホームぺージも、高校時代に、僕が「ホームページ・ビルダー」というソフトを使って、自作しました。プロに任せずあえて僕に任せてくれたところに、経験の幅を増やしてあげたい、といった両親の思いがあったのかなと思います。

 先ほど(インタビュー【上編】)、家族旅行はほとんどなかったと言いましたが、両親は海外に行く機会も積極的に与えてくれました。早い段階で海外の敷居を低くしてくれたのはありがたかったですね。おやじは苦労人で自分は新婚旅行くらいでしか海外に行ったことがないのですが、息子には「広い世界を見せたい」と思ってくれていたのでしょうね。

―― 何歳の時に、どこの国に行ったのですか?

山田 中学1年生の時、地元のテレビ局が企画したカナダへの短期留学に応募して行かせてもらったのが最初です。行ってみてとてもよかったので「またカナダに行きたい」と言ったら、「世界は広いんだから、同じ国はダメだ。次は他の国に行け」と。そこで、大学時代にはバックパッカーで30カ国を回りました。

 そして、大学時代の交換留学プログラムで選んだ先がフランス。パリのグッチで働いた経験が、起業につながっているのですから、あの時に「行っていい」と両親が背中を押してくれたことには感謝したいです。世界を見る経験をさせてもらったからこそ、「日本のものづくりの素晴らしさ」に気づき、それを大切に継承するためのビジネスモデルを本気で考えるきっかけになりました。

 両親は商売をしているので、お金には厳しかったですし、僕が会社を作る時にも「身内からしか金を集められないようでは商売は失敗する。借りるなら銀行に行きなさい」と1円も出してくれませんでした。そんな両親ですが、海外に行く費用は惜しまず出してくれた。子どもが知見や視野を広げるための「投資」と考えてくれたのでしょうね。

「レールに乗り切れない自分がどう生きていくべきか」考え続けて大人に

―― ご両親から与えてもらった体験の積み重ねが、今の事業にもつながったということですね。今や「アパレル業界の革命児」とも言われ、これまで日陰の存在だった工場発のブランドを生み出すという、誰も試みたことのないことに挑戦をしていますが、そこにもご両親からの影響はあると思いますか。

山田 直接何か言われたことはありませんが、僕の意志をいつでも尊重してくれた姿勢は確実に支えになっていると思います。先ほどお伝えしたように、僕は周りと比べて劣っていましたが、両親はそのことで、僕を責めたり非難したりせず、いつもあるがままの僕を受け入れてくれていた。だから、僕自身も、「他人と比較せず、自分自身の内面と向き合えばいいんだ」と、自然と思うようになりました。

 「常識」や「普通」の枠に自分を当てはめようとすると、どんどん苦しくなりますよね。「レールに乗り切れない自分がどうやって戦っていけばいいのか」を考え続けて大人になった気がします。「服のタグに工場名を入れる」「工場が値付けする」といった、これまでのアパレル業界ではあり得なかった方針を決めたのも、誰かと競うのではなく、自分にとって心地いいと思える理想の世の中を目指したかったからです。

―― 山田さんのオープンで親しみやすいコミュニケーション力も、ご両親の教育がベースになっているのでしょうか。

山田 接客を手伝っていたので、初対面の人と打ち解ける力は自然と身についたかもしれませんね。マダムたちを相手に、いかに関心を引きつけるか(笑)。店に出ている時、ある常連さんが母を目当てにご来店したとします。でも、母は他のお客さんに付きっ切りになっている。母の手が空くまで、何とか間を持たせようと、子どもの僕が頑張るわけです。「そういえば、福山雅治さんの大ファンでしたよね。最近コンサートには行っているんですか?」とか(笑)。

親しみやすい人柄が持ち味の山田さん。抜群のコミュニケーション力は、幼少期からの実家の店での接客で培われた


「職業に貴賎なし」「誰かのためにできることを」両親から様々な価値観受け継ぐ

 母からよく言われて覚えているのは「職業に貴賎なし」という言葉です。どんな職業にも価値があり、感謝とリスペクトの意を示すべきだと。

 そうした価値観を受け継いだので、今僕は、オフィスに来てくださる宅配業者の方や清掃のスタッフさんに、自然と自分から声を掛けてしまいます。

 高校時代もこんなことがありました。通学路の交通誘導に立っているおばさんに毎朝「おはようございます!」と元気よく挨拶していたのですが、高校3年生の3月になって、「春から大学進学のために上京するんです」という話をしたら、なんと餞別(せんべつ)をくれて。当時の熊本ですから、時給700円程度だったはずなのに、3000円も。その金額の重みをずしりと感じました。

 両親が発展途上国の子どもたちのために毎月寄付をしていたのもよく覚えています。「誰かのためにできることを」という両親の姿勢から影響を受けている部分も大きいですね。アパレル業界で、生産拠点の海外移転により、国内の工場が苦境に立たされているという現実を知って、何とかしたいと感じたことが、今のビジネスモデルにつながっていますから。

 人生を自力で切り開き、高い目標を達成するためには、誰かが決めた指標ではなく、自分自身が「こうありたい」と決めた指標で誠実に生きていくしかないと思います。そのための基礎力のようなものを、両親は僕に与えてくれたのでしょうね。

取材・文/宮本恵理子

山田敏夫
1982年熊本県生まれ。実家は熊本市内で100年続く老舗洋装店で、忙しく働く両親を間近で見ながら育つ中で独自の職業観を確立。大学在学中、フランスへ留学し、グッチ・パリ店で勤務。本場のものづくりに触れ、「メイド・イン・ジャパン」の服作りを目標に掲げる。卒業後、人材広告会社、アパレル系企画会社を経て、2012年、ライフスタイルアクセントを設立。工場直結型ブランド「ファクトリエ」を展開し、「汚れない白デニム(児島のずっときれいなコットンパンツ)」などのヒット商品を生み出す。これまで訪れたモノ作りの現場は600超。著書に『ものがたりのあるものづくり ファクトリエが起こす「服」革命』(日経BP社)。https://factelier.com/

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日経DUAL

2019/07/26掲載記事を転載
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