Vol.6 牧場をフィールドにしてやりたいことを形にしています

広島県の東南部に位置し、三方を山々に囲まれた府中市。
古くから機械・家具・金属などの製造業を中心に「ものづくり」のまちとして発展し、全国規模の企業が数多く立地している。
また、府中市では子育てを全面的にサポートし、「保育園の待機児童はゼロ」。
女性が就業しやすく、多様な働き方ができる地域でもある。
そんな府中市で、今まさに活躍している女性をクローズアップ。
今回は、やりたい仕事がありすぎて絞れなかった学生時代に実家の牧場の魅力を再発見し、牧場運営を担うようになった小川香奈さんに、仕事の楽しさや府中市での生活などについて聞いた。

背中を押したのは再発見した「牛の愛らしさ」

池田牧場
小川 香奈さん(38歳)
Kana Ogawa

 一面に広がる緑豊かな牧草地を背景に、手作り感いっぱいのカフェやテーブル、遊具などが点在し、牛舎では乳牛たちがゆったりと餌を食(は)む──。府中市上下町の山あいにある池田牧場は、そんなのどかな風景を目にできるこぢんまりとした牧場だ。
「戦後、私の祖父が山を開いてスタートし、その後両親が受け継いで、今年70周年を迎えるんですよ」
 そう楽しげに話すのは、両親から牧場運営を任され、現在ご主人とともに切り盛りしている小川香奈さん。牧場では乳牛60頭、子牛20頭を飼育しており、乳搾りや餌やり、牧草づくり、堆肥づくり、人工授精による種付けなど牧場での仕事全般を担い、搾乳した牛乳は広島県三原市内の牛乳・乳製品製造販売会社に卸している。
 子どもの頃からこうした仕事の手伝いはしていたが、牧場を継ぎたいと思うようになったのは20歳近くになってからのこと。
 小川さんは3姉妹の次女として生まれ、地元の高校卒業後は語学を学ぶために長崎県内にある短大に進学した。

「英語を使う仕事に就きたいと思っていましたが、他にもやりたいことがいっぱいあって。店舗経営とかイベントの企画運営、子どものための施設運営、農業など、挙げたらきりがないほど。とにかく、人や自然、動物と触れ合うような仕事がしたかったのです」
 職種を絞りきれず、進路について悩んでいた短大2年の夏休み。久しぶりに帰郷した際に、その答えが出た。「実家の牧場なら、やりたいことが全部できる!」と。そして、なにより心惹(ひ)かれたのは「牛」だった。
「人に話すと笑われるのですが、改めて牛を見たら、その瞳のかわいさにキュンとしてしまったんです(笑)。この子たちとならやっていけると確信し、当時学校の教員をしながら土日だけ牧場を手伝っていた姉の代わりに、私が実家に戻って専業で牧場の仕事をすることになりました」
 ただ、短大卒業後はすぐには帰らず、社会経験を積むために半年という期限付きでアルバイトを開始。カフェや居酒屋の店員、結婚式場での新婦介添人、清掃や運送関連の仕事など牧場運営に役立ちそうな仕事をいくつも掛け持ちした。

手間を惜しまず「食」の安全を守る

小川牧場の一般公開は、4月から10月末までの土・日・祝日(11:00〜17:00)のみ。搾乳体験や餌やり体験、チーズ・バターづくり体験といった体験メニューも設け、酪農の理解醸成に努める

 短期間でさまざまな経験を積み、1998年から池田牧場での仕事をスタート。以降、次々と自分のやりたいことを形にしていった。
 例えば、敷地内に廃材を利用して建物を建て、食品衛生責任者の資格を取り、カフェをオープン。喫茶「ペブロノマダ(遊牧民)」と名づけ、自家製ソフトクリームや上下町産の米粉とミルクを使ったワッフルなどを提供。妹が結婚する際には式場にと多目的ホールをつくり、そこで式や披露パーティーを行った。「この牧場は家族経営なので、あるときは水道や電気屋、あるときは大工や溶接工になり、なんでも修理したり、手作りすることが基本」という。

 また、牧場の一般公開も実施しており、来場者は乳牛と触れ合ったり、カフェでくつろいだりできる。
「一般公開は、実はリスクが高いので覚悟が必要です。例えば、口蹄疫(こうていえき)が発生している国から帰国した人が来場した場合、牛がウイルスに感染する恐れがあります。それでも、農業の価値が見失われている今、多くの人に酪農の仕事や牛乳がどのようにできるかを知ってほしい。ですから、牧場の入り口で靴底を消毒してもらうという対策を取り、一般公開を続けています。ただ、収入源はやはり酪農。一般公開で利益を得ようとは思わないので、入場料は無料にしています」
 さらに、「酪農体験を通して、食といのちの学びを支援する」ことを目的に教育活動を行う「酪農教育ファーム」の認証を一般社団法人中央酪農会議から受け、小川さんはファシリテーターとして学校と連携し、小学生を対象とした牧場での体験学習も行っている。
 持ち前の行動力を生かし、興味のあることに積極的に取り組んでいるが、もちろん本業である酪農への情熱も人一倍だ。牛乳プラントを持たない池田牧場では直接牛乳を販売できないためメーカーに卸しているが、その牛乳は他の牧場の牛乳と混ぜられ、1つの牛乳パックとなる。であっても、エコな牛乳づくりにこだわり、牛の餌になる牧草には化学肥料や農薬は使わず、牛の堆肥を入れてつくる。除草剤の散布もせず、雑草は手作業で抜く。周囲から「神経質」と言われつつも、1年に1回は全頭血液検査を行う。
「人の口に入るものを生産しているので、“安全”であることが一番。いくら手間がかかっても、それを守っていきたいんです」
 こうした小川さんの仕事ぶりを聞きつけ、ある日突然「ぜひ実習させてほしい」という電話がかかってくることも。
「求人募集など全然出していませんが、起業して牧場をやりたいという人など、何人も実習生としてやってきました。給与は出せませんが宿泊と食事の提供ならということで、半年間住み込みで働いて酪農を学び、今では牧場を経営している人もいます」  求める人に門戸を開くのも、酪農を推進したいとの一心からだ。

府中市は五感が磨かれる地域

「仕事中は牛と接しているときが一番楽しい」と小川さん。プライベートでは子どもとの時間も大切にし、一般公開していない期間の土日には、子どもたちの友だちも招いて“焼き芋パーティー”などを開くことも

 意欲的に牧場の仕事に取り組む一方、2006年に結婚し、現在は上から小学3年、小学1年、保育所年長の3児の母として、子育てや家事も担う。その一日は、朝、子どもたちを学校や保育所に送り出した後、8時から乳搾りや牛の餌やりなどを行い、昼食をはさんで再び牧場の仕事をし、夕食前後に子どもたちと過ごして寝かしつけた後、20時から23時まで2回目の乳搾りをするというもの。長時間の労働となるが、働きながら子育てすることについては苦労を感じないという。
「3人とも保育所にはスムーズに預けられましたし、小学生になってからは放課後クラブがあるので仕事に専念できるんですね。私は利用していませんが、申請すれば保育所も放課後クラブも、土日でも預かってくれるので看護師をしている友人などはすごく助かっているそうです。そうした市の取り組みはもちろん、上下町の環境も子育てにプラスになっていると思いますね」
 保育所では毎日の散歩コースの中で、ドングリ拾いやザリガニ釣り、ドジョウすくいなど田舎ならではの遊びができ、日々自然と触れ合うことができる。
「そういう環境はとても貴重で、幼少期の発育には必要だと信じています。例えば、“雪ん子飛んでるから、雪が降るね”って子どもと会話をするのですが、街の人はそういう話はしないですよね。雪ん子というのは、初雪の直前に舞い始める、お尻にフワフワの白い毛がついた雪虫のことですが、それを目にして季節を感じられる。五感が磨かれ、感受性が豊かになる地域だと思います。こんな恵まれた自然の中で、私自身も大好きな牛と暮らし、四季折々の風景の美しさに足を止める時間が許されることに豊かさを感じます。この生活を大切にしながら、いつか牧場に牛乳プラントを持ち、チーズやヨーグルトなどオリジナルブランドをつくるのが今の夢です」